5 子育ての負担を
社会で抱え、軽くする

木下:社会の中で人間は誰しも1人では生きていけませんが、子どもは特にそうですね。

田北:子どもは誰かにケアされないと生きていられない存在なんですね。大人は仕事して飯食って、生きられるけど、そんなこと子どもはできない。その子に課題や問題があるのではなく、子どもという存在がケア前提の存在なんです。だから、小さい時からケアをしてもらい、愛着関係を育んでいき、成長していく、と。でも様々な理由でケアを受けられない子、大人に頼れない子がいる。それでも、その子にはケアが必要で、そこで里親という存在が必要になるんです。

木下:頼る人がいないと生きられない子どもたち。それは、裏を返すと、人は誰かと一緒にいてこそ育つ存在だともいえますね。ケアする人がいて、愛着が育ち、自己肯定感が育つ。ケアする人がいないと生きられないから、里親でバックアップする、と。そこに愛着が生まれ、帰るべきホームができ、自己肯定感という次のステップにも進めるわけですね。

田北:ええ。前編でも話しましたが、一昔前の日本では頼れる人がいる状況が家族・親族内で自然と保たれていました。かつては、世帯人員が多く、かつ親族も多くいたので、その中で誰かがケアしていた。人数が多いから、誰か1人が過度な負担を負わずにケアできていたんですね。また、これは決して良いこととは言えないのですが、夫婦の1人、今までは特に夫が相応の給料をもらえて、妻は専業で家庭内のことに向き合い家族を支えることができていた。母親が時間を割いて子どもをケアできていた。
でも、今はほぼ共働きで、かつ世帯人員も減ったことで、ケアを担える人数が減り、税金や社会保障負担も増えて可処分所得も減り……もう家族の外側の人たち、つまりまちの人たちが子どものケアを手伝わないと難しい。逆に、以前と同じように自然と、無自覚に、子どもをケアできる方が特殊な状況になっているんです。

木下:家族の外側にいてサポートする人たちがムリをしていたり、強い負担になっていたりしたら成立しないと思うんです。田北先生もご自分の限界を超えてはできないことだと思う。できる範囲で助け合う。そのできる範囲で、というところが僕のいう自己肯定感につながってくるんですけど、家族の中だけで支え合うのが難しい今、外側の人たちはお互いムリなく必要十分に、これぐらいしかできないとか思わないし、ここまでやったのにとも思わないですむような、なんかこう心地いい助け合いみたいなのが大事なんじゃないかと。頼られる人が理想の精神状態であってはじめて、誰かが誰かに頼って子育てできるわけですから。愛着があって自己肯定感がある人達がありのままで助け合う、みたいなのが本来理想なのかな。先生の匙加減はどうされているんですか。

田北:たとえば、僕自身もわが子の子育てが十分にできているかというと自信はなくて。後ろめたさもあるんですよ。ただ、子どもの支え方っていろんなカタチがあるし、夫婦2人で支えているものを5人で支えるとなった時に、子育てに関わる人が夫婦の他にあと3人いると思えるだけで、ずいぶん違う。で、その3人の関わりは、夫婦が2人で支えているものよりももっと軽いわけですよ。
たとえば、ひとり親家庭を3人で支えるとして、その3人はその時々に関わればいいから、親より抱える負担は断然軽いですよね。そういうふうに、関わる人が増える方が、各々にかかる負担も減るわけです。誰かが親になるというわけではなくて、周囲の人がお互いに少しずつ支え合う。それがある程度の人数になったり、実際に関わってみれば、頭で考えるより個人の負担は小さいものです。
あと、支える側も、喜びや学びや経験……そういう様々な社会的な価値が得られます。支える=負担が生じるという構造ではなくて、関わることによって得られるかけがえのない体験や気持ちを前向きに分かち合える仕組みをつくることは大切だと思います。

木下:なるほど。人類学の先生にお聞きした話だと、家族という共生単位は民族とか文化によって全然違うし、それを取り扱う研究者の視点によって結論も全然違うわけです。そうすると、共生単位としての「家族」の決まりみたいなものはほとんどなくて。それぞれの地域や社会で暮らすからにはもちろん、それぞれのルール上での関わり合い方にはなるけれど、共通する結論としては、田北先生がおっしゃる「助け合う」というテクニックを上げていくっていう話になっていくのかなと思いました。助け合いの集合体である「家族」のサイズをどれだけ広げられるか、という。
もう1つ、先生のお話の中で、養子縁組をした子どもが自分のルーツを知りたくなった時にサポートするサービスがあるとおっしゃっていました。それも愛着とか自己肯定感を本人たちが獲得する上で必要なサポートだと認識なさっていますよね。そう考えると、助け合いのテクニックって、個人レベルのある種の精神的な実りがあった上でより向上していくのかな、とも感じました。

田北:ルーツ探しは、自己受容に大きく影響するので、自己肯定感とは少なからず関係するとは思います。ただ、そこと助け合いがどのようにつながるかは、よく分かりません。人って基本、頼られて生きている存在なんですね。僕もこうして依頼を受けて、頼られて話をしにここへ来ている。誰かに頼られているからこそ生きられている、という言い方もできるし、頼られることで自己肯定感が生じるわけです。とすると、家族という関係の中で世話をする世話をされるというのは、ある面で、頼る頼られる関係という見方もできるんですね。で、子どもは誰かに頼れないと生きられない存在だから、家庭内に誰にも頼れない子どもがいれば、その子が生き続けるためには誰かが助けないといけない。親や家族が頼れないのだったら家族の外側の人が担うっていうのは、同じ社会に生きている以上、当たり前のことだと思うのです。