木下:「共生」のリミットって何でしょうか。「死」になるのでしょうか。
飯嶋:死はそうでしょう。共生の前提になる「生」がリミットをかけられる。実際、生物は死にますから。延命措置をとるなど、死ぬ確率を小さくするというのが人間の知恵。それは可能ですよね。ちょっと努力すれば危険性を遅くしたり小さくしたりできる(交易港の原則)。
木下:人間以外、たとえば地球上の他の生物に自殺はあるんですか。
飯嶋:ただ自分で自分を殺す、という意味ではないでしょうが、働きアリとか働きバチとかが、他の同種個体のために身を挺するというのならありますよ。群れを存続させるための自己犠牲とか、利他的な自殺と言えるかな。
木下:そうですよね。神道は自殺を否定してはいけないし、肯定してもいけないのです。「共生」と言っても、自分の意見ばかりが正しいわけじゃないと分かっていないと。
飯嶋:1人ひとりの背景や言い分がありますからね。オーストラリア先住民の話を聞いていると、僕たちよりも、個人の価値の重みが軽いんですよね。僕らからすると、自分のことにほとんどこだわってないように見えてしまう。それってプライバシーとリンクしている気がしました。プライバシーが大事だという人ほど、自分のことが大事だという思いが強い傾向にあるような。シャーレの中に入りたくないから「共生」にも繋がらない。つまり、プライバシーという言葉の中に、過剰な“自分大事さ”を感じます。
木下:なるほど。狩猟採集民はプライバシーって考えていたのでしょうか。
飯嶋:比重でいったら僕らよりは全然考えないでしょう。かといって、全くない訳ではないですよ。他人のセックスはじっと見ていけないし、排泄も見せないとかは当然ありますから。
木下:では、宗教学におけるプライバシーとは、どのような捉え方なんでしょうか。
飯嶋:宗教学といっても、宗教によって色々ですが、例えばキリスト教研究から出てきた説には「世俗化論」というのがあります。時代が下れば下るほど、聖なる世界から人々が離れて世俗化していく。キリスト教での一種の仮説でしかないのではという見方もあり、そうした限界つきではあるものの展開されたのが「世俗化論」です。
では、神を信じられなくなった人たちはどうするのでしょう。フランスの社会学者、エミール・デュルケムなどの宗教研究者は、別のものを聖なるものと扱うようになる。神から神以外の世俗のものに聖が移るのでは、と考えました。(※1)
木下:国家とか、エゴ(自我)とかでしょうか。それなら何となくわかる気がします。かつて宗教絵画や宗教音楽で神を言祝いでいたように、現代ではエゴを大事にして、自分自身をファッション化、ブランド化することに注目されています、Youtubeとか。プライバシーとは、自分の中にある、聖なるものが残された最後のよすがなのかもしれませんね。
飯嶋:木下さんは、現代人が聖なるプライバシーを手放せないがゆえに、共生の猥雑さに入れなくなっているのではと思っていますか?
木下:「共生」というワードに限らず、人類は次のステップに進む時が来ていて、そうなるとプライバシーは手放す必要があると感じています。SNSの発達でプライバシーは発信する時代になりましたが、みんな見せるプライバシーと見せないプライバシーに分けて利用していますよね。ですが、現代社会の管理者から見たら透明性は極めて高いです。そこに気づいたら、プライバシーはないし、ましてや表も裏もないといえるのではないでしょうか。ただ、ずっと先のステップでしょうね。国家が神だと思っている人はもういないかもしれませんが、今もまだ民族は神だって思っている人はSNS上に大勢いますから。
飯嶋:そういう意味ではアメリカの社会学者アーウィン・ゴフマンが指摘していましたが、「エゴ」こそが神になっている訳ですね。現代はまさにそれだって気がします。(※2)
というのも、教育の現場でもちょっとそれに関連するようなことが起きていて。今の学生、フィールドワークが苦手なんです。「みんな話しをしてくれない」と言って帰ってくる。どんなやり方をしているか聞いてみると、初対面の人にいきなり本題の問いを投げかけているんです。「人生の話をきかせてください」とかね。そんな話をいきなり聞かせてくれるわけがありません。でも、学生たちは他人の家に行ったことがないし、雑魚寝もしてきた体験がないから距離をつめる方法がわからない感じです。
木下:そういう経験は圧倒的に少なくなっているでしょうからね。
飯嶋:ただ、雑魚寝とかを通過した学生は、すぐにみんなと仲良くなる。うちとけた付き合いができるようになるんです。つまり、本人の判断だけに任せてプライバシー第一でやっていて人は成長できるんだろうか?と考えることがあるんですよね。でも強制的にしてもうまくいかないし、ハラスメントにもなる。そこで、共生の原則で出てきた「安全地帯」が必要だと思うんですね。雑魚寝とかを通過する機会を作るけれど、どうしてもだめだっていう1〜2割には別の安全地帯を作ってやるとか。オプションを用意するんです。
木下:なるほど。でも、どうでしょうね。自分で言いましたが、プライバシー、全部捨てられるでしょうかね。バランスが大事。SNSは逆説的にそれを表しているのかもしれませんね。
飯嶋:でもSNSも感覚的には「共生」なのかもしれませんよ。「エゴの共生」かな。友達やいいねが大事なのがSNSで、価値の在り方が変わりつつありますね。Youtubeの登録者数とかもですよね。エゴが中心になってその周囲で経済が回る。そういうエゴ同士の「共生」もあるのかもしれませんね。
先崎:新人のリクルート観が時代によって違うという話を聞いたことがます。かつて日本が貧しくてご飯も食べられなかった時代の新人は「飯食わせてもらえるなら頑張る」。次のバブル世代は「お金がもらえるなら死ぬ気で働く」。そして次の世代が求めるものは、自己肯定感。褒めないと頑張らないし「残業代より休みが欲しい」と。
飯嶋:学生にも時々見かけますね。評価Aの取り方を聞いてくる学生が。そういうときは「結果をゴールにするとよくないよ」と言います。「外側の評価だけが絶対になると、自分の主人公になれないよ」と。(※3)
木下:複数の自分を制御できてこそだという現代の風潮がありますよね。でも、結局は二兎を追うもの一兎も得ず。自分は一つにしておいた方が遠くまで行けるように思うんですよ。
先崎:たくさんあった方が生き残れる(生命に近い)という、リスク分散と多様が現代なのかもしれませんね。
木下 :それって、なんのリスクですか?
先崎:たとえば、状況が変わった時のリスクとか。予期せぬ状況の変化にもすぐに対応できれば生き残れる、という発想です。
木下:なるほど、複数の国の通貨をいろんな銀行に預けているのと一緒ですね。でも、大きなことはできない。しかも、予期しない何かが本当にリスクなのか、という疑問もありますね。
※1 エミール・デュルケム1975『宗教生活の原初形態』古野清人訳 岩波文庫。
※2 エミール・デュルケム1983『デュルケーム宗教社会学論集』小関藤一郎訳 行路社やアーウィン・ゴッフマン2002『儀礼としての相互行為』浅野敏夫訳 法政大学出版局を参照。
※3 市川伸一『学習と教育の心理学 増補版』岩波書店、参照。学習の理論では外発的動機付けと内発的動機付けの古典的研究があり、学習自体に面白みを乱す内発的動機付けの場合ではそれ自体に興味をもって学習が続くのだが、報酬のために課題を解く外発的動機付けの場合、報酬がなくなると学習が止まるという実験結果が出ている。企業でよくインセンティブが話題になることを考えると興味深い論点である。本書にはそうした古典的理論以降の展開が書いてある。