木下:先生のように当たり前と思えたり、そう思えなかったりは、どんな事情の違いなんでしょうね。子どもは親や家族だけで育てなくちゃいけない、という考え方もまだまだあると思います。そういう人は、家族とはこうあるべきという規範が逆に足かせになっているのかもしれません。
田北:子どもは親が育てるべき、そういう考え方で過去は子育てもできたけど、現実として、今はもう無理な状況がたくさん生じているわけです。従来の規範性みたいなものにとらわれていると、本来できて当たり前だよね、って声を投げかけてきた人自身も非常にしんどい思いをするような構造になっています。
木下:確かにそうかもしれません。僕の知人、先日2人目が生まれたばかりですが、子育ては地獄だと嘆いていました。特にこのコロナ禍、乳児と幼児を抱えてどちらかが病気になると夫婦だけでは手が回らないし、実家も頼れない。本人の中での正しい家族像をまっとうしようとしているのに、自分が置かれている社会がそれを果たせない状況になっていて。
田北:そうですよね。今の社会は「自分でがんばんなきゃ」って思うことが、苦しくなりがちな構造になっていて、その苦しい気持ちが子どもや弱い立場の人に向けられ……って悪循環が生まれやすい。今生きていく上で本当に重要なスキルは「どれだけ自分でがんばるか」ではなく、「いかに他人に頼れるか」だと思ってます。誰かに「ちょっとお願い」と言える力。
ただ、それって言いづらいのが当たり前だから、頼っていいんだって思える状況を社会側がつくっていくべきだと思います。家族に頼れないんだから、家族以外の他者が頼れる状況をつくる。「ちょっとお願い」って言える働きかけをしていくことで、困っている人、抱え込みがちな切実な人が頼れるようになっていく。
そういう視点で他者との関係を鑑みると、地域というスケールが見えてくるんですね。さらに言うと、人間だけでなく、環境もある。だから、僕はまちづくり、地域づくりという言葉を用いていて。人間との関わりで言えば、第三者との関わり、他者に頼れるかどうかっていうことを意識しています。
木下:わかります。人に「助けて」っていえる力が自分に内在している自己肯定感だとしたら、それが突破力になる場合もあるし、困っている人が「頼っていいんだ」と思ってもらえる外側からの環境づくりも大事だし。両方あるんでしょうね。愛着関係って子どもの時に養うものなんですか、やっぱり。
田北:いろんな説があります。ただ、愛着関係を育むものは母性だとか言ったりするけど、母性って母親に限らず父親にもあるものなんです。さらに親以外の人とも愛着関係は結べるとの研究もあります。なのに、母親だけとの愛着とか、3歳神話とか…、そういう固定概念が今までの家族規範をつくり、特に母親がしんどい思いをする原因になってきた。でも、愛着関係は別に母親じゃなくても結べるっていう視野を持てば、母親の負担もずいぶん軽くなりますよね。
今問題になっているヤングケアラーに関してもそう。たとえば、障害がある母親のケアを抱え込んできた子どもの話があります。その子が外に助けてと言えないと同時に、母親も誰にも助けてと言えない構造がそこにあった。それはなぜかと言うと、母親は自分自身が「子育てをできないダメな母親だ」と感じていて、他人にもそう思われることが苦しかったから、助けてと言えなかったんですね。
木下:ああ、なるほど。じつは僕も、あまり他人に頼るのが得意ではないタイプだと自分で思います。それは、お願い事をする時に、心のどこかで「自分は他人を利用しようとしているんじゃないか」と心配になるからで。それって僕の自己肯定感が低いからかな。みんなで頼り合うのは理想的だけど、その流れに乗じて相手を利用しようとする人も出てくる気がします。
田北:そういうふうに心配するところも含めて、木下さんの個性というか人格なんでしょう。相手に対する配慮の気持ちもあるんだと思います。頼ろうとしているか利用しようとしているかは、個別に見ないと判断しにくい問題だけど、たとえば僕にとってはまず、支えるべき人を支えるってことが大前提。だから、利用しようとする人を拒むがゆえに支えるべき人を支えられないのだとしたら、やっぱり誰も拒まずに支える方がいい。
木下:確かにそうですね。神社も同じです。本来的には誰も否定しないとか、いろんな人がいていいというのを体現してこその神社。単純に、人間的な道徳とか善なるものばかりじゃなくて、邪なものも否定しないし、そこに咲いている花のごとくあるものとしてすべての存在を受け入れるということが本来の在り方なんでしょうね。
田北:自己肯定感って人を信頼するっていうところも含んでいる概念ですよね。利用されていたとしても相手を信じ続けられる姿勢が重要だったり、そういう人もいるよねって誰かと信頼関係を結んだりっていう……そういうものが自己肯定感を育む気もしています。
木下:先日、「神道行法禊錬成」といって、川で身を清める行法の研修をしてきたんです。自分の心身に、ある制限をかけて整えていくことで、神職としての理想的な心身に調整して、自分自身を神様へ祈りを捧げられる状態に導いていく。つまり、自分の調整ができていないと人の祈りも扱えないので、自修してないと他修はできない、というわけです。今回は自修鎮魂という極めて個人的な体験を、10人くらいの集団で行ったんです。すると、みんなの中にいながら、個人に没入することで、みんなも周囲も見えなくなるという、このステップを通して自分が開かれていくんです。つまり、個人の自己調整も「頼り・頼られる」というか、他者がいてこそ成り立つ。
田北:修行の現場でもそういう体験があるのですね。
木下:ええ。田北先生が以前、「自立とは自分ひとりで立てる力じゃありません。自分を助けてくれる頼る人がたくさんいることが自立です」とおっしゃったことを思い出しました。禊も自己の自修鎮魂をするために集団で集まるんだけど、それぞれ自己に入っていく。自分に入るためにはみんなが必要だという──そういう頼り方もあるのかもしれません。自分の中に力を内在させるためにも他人が必要だし、他人と関わるためにも他人が必要だし。