先崎:香椎宮は夫婦の神様でもあるのですが、夫婦もやはり頼り・頼られる関係になるんでしょうね。
田北:夫婦に可能性を感じるとしたら、2人が他人だっていう点です。血縁っていうけど、そもそも夫婦は血がつながっていない。私たちはよく「他人にはこういうことできないよね」って言いますが、そもそも夫婦って他人でできている。そこに可能性っていうか、本質があると思います。
あと、そもそも夫婦は難しいんですよ、2人だから。2人って対立したら難しい。ケンカしても2人だとぎくしゃくして、回復が難しい。そもそもそういう単位なんです。だから、子どもや家族が大事だから守ろうとしても、2人だけだと難しくて当然。今は、以前よりも夫婦っていう単位が自然と健やかになりにくい世の中だから、なおのことです。神社にはしんどい2人をエンパワーしていくっていう役割があってもいいのかもしれません。個人的に、多様な夫婦関係、多様なパートナー関係があっていいと思うから、その可能性や、そこからいろんな子育ての在り方を里親とか養子縁組とかも含めて考えられる機会があるといいですよね。
木下:その話、すごくよくわかります。血がつながってない2人が頼り・頼られる、信頼し合うという、当たり前のところの解像度を上げていくのは本質的で大事なことですね。もう一歩踏み込んで話すとしたら、神社は夫婦という今や厳しい2人に限らず、様々な関係を助け合いやすくする、頼りやすくする、最小公約数側の後押しをした方がいいのかなと思っています。2人という構成が難しいから夫婦をエンパワーするというよりは、厳しい人も厳しくない人も共通して助ける。今これから必要な助け合いのテクニックをどんどん上げていくとか、互いに頼れる力を高めていくとか、そういうところにフォーカスして働きかけていこうかなと。
先崎:大家族主義という時代があって、その頃は家庭内や地域でケアし合うことができた。でも、その一方で、そのコミュニティを窮屈だと感じた世代もいました。たとえば地方よりも都会が良かったり、周りの人も知らない人の方が良かったり。早く親元を離れたいとか、誰にも束縛されない暮らしみたいなものへの憧れもあった。でも、社会的な背景が合わさって家族だけでの子育ても大変だし、家族単体ではいろいろと立ち行かなくなっていて、今もう一度コミュニティの大切さに気づき始めています。ただ、再び昔のコミュニティに戻すのは大変で、自治会とか子ども会とか、そういうつながりも今の時代の仕組みを再構築しないといけなくなっているように感じます。
田北:そう、未だに関係の作り方が前のままなんですよね。関係の作り方は別に以前のやり方じゃなくていいし、自分たちでつくっていかなくてはなりません。シェアハウスとかも、そうでしょう。まずは海外で浸透したのは、基本的に個人を尊重しながらみんなで支え合おうとしていたから。日本は家族とか地域コミュニティという基礎単位がベースになっていたから、そこにおさまらない他者と一緒に住むと言う発想に至りにくかった。ここへきてようやく、経済的な負担とかお世話をする役割とかを何人かで担った方がいいよね、とオルタナティブなものとして複数人でシェアをするという文化が出てきた。その時に旧来のマインドで「僕ら家族だよね」と持ち出すと息苦しくなることもある。その人たちなりの関係性やルールの作り方があるはずだし、そもそも一緒に住もうという時点である程度の価値観は共有しているわけだから、気が合う仲間4、5人くらいでならストレスなく支え合える。そこにオルタナティブなつながりを見立てていく姿勢は大切ですよね。
木下:人づきあいって、やっぱりストレスなんでしょうか。個人的に、多様性を尊重して平和になっていくことは、みんなが同じ考えになるわけではないと思うんですよ。多様性を尊重したくない人もいますしね。平和になっていくということは、みんなが同じ人間になるんじゃなくて。みんながてんでバラバラの別個の存在同士でありながら、ひとつになってるっていう。それが、多分いいんだろうなと思っていて。そのためには、今言われたような、シェアハウスのように、ある共通の価値観の中でストレスなく心地よくセキュア・ベースとして暮らしを共有できるというのが1つのステップで、その輪が少しずつ広がっていくのがいいのではないでしょうか。
資本主義とか共産主義とか社会主義とか、子育てもそうかもしれないけど、新しい仕組みで世の中を整えて良くしようとしていても、人間の心の成長が起こらないと、結局、主義の戦いで終わってしまうんじゃないかと常々思うんです。ありのまま別個の存在だから共存し合う、というところにみんなが向かっていかないと、何回やっても同じことの繰り返しなんじゃないのという。人間の精神性がシェアハウスのサイズを大きくしても平気になっていかないと、と。だから血のつながっていない夫婦に共感しているんですけどね。
田北:そういう話の時に僕はよく、谷川俊太郎さんの『せんそうしない』という絵本を思い出します。あの絵本の中に「仲良くなろう」とは一言も書かれていません。ただ「せんそうしない」と。子どもの頃、ケンカしたら先生が「仲良くしなさい」と言われてきませんでした? でも、仲良くなれっこなくて。仲良くなるとか、平和になるというのは、ある種お互いがより良くなるという意味が込められてはいるんだけど、実態として多様性が共存している状態って、仲良くなるというより、ケンカしないということなんですね。
たとえば、小学校の時にクラスの担任から「仲良くなりなさい」ではなく「ケンカしないための作戦を練ろう」と言われていたら、意外といい答えが導き出せていたかもしれない。仲良くなれないとしても、ケンカしないやり方はある。そういう関係の在り方が僕は多様性の在り方だと思っていて。誰でも、存在そのものに価値があって、存在することを認めるだけでいい。密な関係にならなくても、お互いが存在し得る関係性の作り方なら、お互いにいい知恵が出せる気がするんですよね。
「せんそうしない」文: 谷川 俊太郎 絵: 江頭 路子(講談社)
木下:そういえば、さっき話した禊のあとに、豊前の温泉に入ったんです。地元の方が入浴されていたところに、見知らぬ僕らが入っていって。最初は無言でしたが、途中で地元のおじさんにちょっと話しかけたんですよ。そしたら他のおじさんも集まってきて(笑)。その時だけの関係かもしれないけど、深く仲良くなろうとせず、互いに争わない態度を取り合えたので、いい感じに話ができたのかもしれません。そうやって、まったく交流しないのではなく、せめて「争わない」と示し合うやり取りはあってもいいかなと。
田北:そうそう。仲良くならなくていいんだけど、互いに応じあおうとする気持ちはうれしい。互いに応答することによって生じる関係、ぽっと気持ちがあったかくなることがある。言葉にならなくても態度で示したり、あるいは何かを伝えたいなと示すことで広がる関係がある。無視をしたり、ただの反応で終えるんじゃなくてね。でも、多様性を認めるってことは、そういうことすら難しいよって人も認めるってことですよね。とことん分かり合えない人はいる。個人的には分かり合えないし理解できない、でも存在は認めるよ、っていうのが根本的に大事なところ。
木下:自然環境に対しての関わり方とか共存の仕方というものが「自然信仰」として世界中にある以上、その自然から出来た世界にあるものたちはすべて必要であり、祝福されたものたちであると僕は思っています。だから、この世界に存在しているものは価値あるもので、排除されたり不要だとされるはずがないと。では、田北先生がなさっている取り組みにゴールがあるとしたら何でしょうか。地域とか家族とか共生単位はどうあるべきだとお考えですか。
田北:夫婦で子育てをしていくのが難しい時代の中で、子育ては夫婦2人の問題じゃなくて、社会の問題でもあります。そういう時、本来誰かに頼らないと生きていけない子どもが頼れない状況が出てきたら、子どもが安心して頼れる場、頼れる関係性を作っていきたいし、子育てがしんどいな、と思う家族がいたらそれを支える関係を社会に作っていきたい。そして、その手がかりのひとつとして、今は里親がふさわしいんじゃないかなと思っているということです。
この世に生まれて、少なからず家族という単位の中で生きていくわけですから。その中でやっぱり僕は「存在」がすべてで。誰もがすこやかに存在していられる、安心して生きられる──そういう状況のために自分ができることをやっているという。それだけです。
木下:ありがとうございます。世の中には少数派と多数派がいて、強者と弱者もいますね。少数派の弱者が孤立しがちな現状はよく話題になりますが、少数派の強者の人も同じように孤立しています。強者であるがゆえの孤独がある。
夫婦も、夫は男で強者のように思われがちですが、孤独でもある。僕が家庭で甘えたくなっても1人になるしかなかったり(笑)。強者だからって少数派の場合もあるし、強者だけど孤立したり。頼りたい相手が必要な場合もあるし、頼りたいと口にできないこともある。夫婦やパートナーでは強い方が弱い方を守るという単純な図式ではなく、強いからこそ頼る人が必要だったり、強いからこそ孤立しない方法を考えたり、お互いに思い合いが必要。自分とは違うパワーバランスだからこその弱みとか悲しみとか苦しみを察して、思いやる。そんな関係性が築けたらいいのかなと思いました。
田北:ハンナ・アーレントという哲学者は、1人になることを孤独、孤立、孤絶と、3種類に分けています。孤独は社会的なつながりがありながらも1人になるということ、孤立は社会的につながりがなくなること、そして孤絶は自分自身からも孤立している、セルフネグレクトみたいな状況です。強くあろうとする人って意外とセルフネグレクトになる傾向があるんですよね…。ある意味での弱さ、優しさもある。一方で社会的に見たら弱い立場と位置付けられている人も、その立場を利用して誰かをコントロールしようとすることもある。それはある意味で強い立場と言えるわけで。関係を捉える解像度は必要ですね。
木下:神社のような信仰施設って、弱き者を助ける場みたいなイメージがありますよね。でも、強き者も弱いわけですよ、本当は。強き者への門戸も開いて、ここでは癒されてください、と。そういうことも言うべきなのかもしれません。本日はいろいろと勉強になりました。これからも、先生の取り組みといろいろな形で関わらせてください。ありがとうございました。
編集協力/重村直美
九州大学大学院人間環境学研究院専任講師|社会福祉士
1975年 熊本市生まれ。2000年、学生の傍らデザイン活動triviaを開始。以降、まちづくりとデザインを切り口に様々なプロジェクトに携わる。04年に熊本県杖立温泉街に移住、住民の立場からまちづくりを実践。09年より現職。現在は、コミュニケーションデザイン/サービスデザインの観点から、主に子ども家庭福祉の課題を乗り越えていくための実践・研究に取り組んでいる。芸術工学修士(九州芸術工科大学)。
この「家族をめぐる対話」は、社会を伺う前編と心を探る後編、という構成になっています。「鶏が先か卵が先か」とは対話の中でも申し上げた常套句ですが、心が作り出した社会と社会を作り出した心は、どちらを先に考えるべきかと順序づけるものではありません。これらはともに人に由来し、互いを振り子のように行き来しつつ考えるべき間柄です。
この対話ではそのように相関する物事に順序がないことはおろか、そもそも物事とは何かしら唯一つのものの立ち現れによって始まるのではなく、相関する二つのものまたその相関が立ち現われることによって始まる、との示唆もなされています。自己肯定感と愛着、生みの親と里親(あるいは親族・共同体)、頼る側と頼られる側、みんなの中に入ることと自己の中に入ること、そして個別と多様性。これらはそのどちらか一つがその始まり、初源ではなく、二つのものが同時に立ち現れまた響きあうことが互いの初源と言えるでしょう。対話の中ではまた、人が作る社会とそこで暮らす人の心が相関し発展することを祈り、「人間の心の成長が起こらないと」とも申し上げました。私たちは、唯一無二のものが世の事象の初源ではなく、二つのものとその相関が初源ではないかと考えることでその転機を得るのかも知れません。
それは香椎宮の主祭神が御夫婦であることとして1300年前から顕されているのではないでしょうか。お互いであることと自分であることに順序はありません。映画『アド・アストラ』の言葉を借りれば、「僕たちはお互いがすべて」です。そしてこの対話はその流れから偶然、具体的な前編と抽象的な後編の二つで構成されました。そのこともまた、夫婦神の遠い昔からの導きによるものなのかも知れません。