3 living togetherとしての「共生」

# 共生、共に生きる、ということとしての「生」と神道

# 神道観の上では、同じ土地から生まれて同じものを食べている実感が「他者」を発生させなかった

共生の原則1
共生すると、新たな個の要素が出てくる

飯嶋:先ほどの「生」の話に戻ると、狩猟採集は人類のベーシックで、これは人類史としては否定しがたい事実です。農耕牧畜になったのは文化の進歩なのかもしれないし、そうしないと食べていけなくなったからかもしれません。明確な証拠がないから、なぜ変化したのかはよく分かってはいないのです。ただ、根本である狩猟採集からの視点で言うと、季節ごとに動物や植物を獲っていた人類が、ある時点で「自分たちはこの動物と主に一緒に生きることに決めた」というものが牧畜になる。それに対して「自分たちはこの植物と主に一緒に生きることに決めた」というものが農耕になるわけです。狩猟採集の時には季節ごとにいろどり変化していた動植物から、自分たちの共生のパートナーを決めたように見えるわけです。

木下:なるほど、特定の動植物を人類のパートナーとして選んで、牧畜や農耕が生まれた、と。

飯嶋:京都大学の福井勝義(※1)の研究では、牛と人間が共生し始めると模様と色のパターンが多様化するという報告が出ています。野生だと、顕性遺伝子(発現しやすい)と潜性遺伝子(発現しにくい)のうち、顕性ばかり出てくる。だから野生の牛にあまり個性はないでしょう。同じ模様や色の牛ばかりになる。
ところが人間と共生すると、潜性遺伝子が発現する余地が出るんですね。つまり「共生すると、遊びの部分から今まで発現しなかった要素が出てくる」。これが共生の原則ではないだろうかと思います。
たとえば、人間の夫婦でもそうじゃないかな。1人ではやりたくてもやれなかったことが、夫婦になって生活が安定すると行動のオプションとして別の趣味や遊びが出てくる。自分の知人にも、結婚した後にアクセサリーを作って販売を始めた人がいました。逆に主夫になって料理することの喜びに目覚めた、なんてこともありますよね。もちろん、安定した関係であれば、夫婦でなくてもそうなるんじゃないかと思いますよ。(※2

オーストラリアの先住民に学ぶ死生観

木下:飯嶋先生が研究されていたオーストラリア先住民たちの死生観はどういったものなのでしょうか。

飯嶋:オーストラリアの先住民にとって、人間は生き物の生まれ変わりなんです。子どもを身ごもった、と感じた瞬間、どの生き物の聖地が自分から近かったかで何の生まれ変わりかが決まる。その聖地がイモムシの聖地だろうが、ユーカリの聖地だろうが、ハエの聖地だろうがその動植物間に優劣はないんです、それぞれに聖地がある。そして生まれ変わりだから、その生き物は食べない。共食いはしちゃいけない。その意味では木下さんがおっしゃるように、「自然」の中に「人間」があるとも言えますね。生まれ変わった人間は、その生き物を増やすための儀式をすることが務めになります。
また、アフリカの狩猟採集民、ブッシュマンになると、彼らはキリンを食べたら、キリンのダンスを踊ります。他の動物でも同じです。それは、食べられたものの方が「主」になっている。「主」の血肉が自分になっていくという論理のように見えます。
これはまた別の、命を奪うことの罪悪感の話ですが、たとえば極北の地域で、熊など、大型の哺乳類を狩猟採集民が仕留めた場合、「このナイフは俺のものじゃないから」と責任を転嫁することもあったと言います。いのちを奪う畏れに対してある一定の付き合いをするのが人の道で、道から外れると、罪になる訳ですね。(※3

木下:様々な距離の取り方がありますね。共に生きているけれど、時には食い食われ、殺し殺される中で、うまく付き合う方法として責任をずらしたり、食べられた方が「主」になったり…そういう付き合い方ですよね。勝者がいるわけではなくて、共生しているということ。

飯嶋:ただ、あんまり大きな存在になると罪を感じるという。クジラとかもそうかな。

先崎(本企画ディレクター):シーシェパード(※4)とかもそうなんでしょうか。哺乳類を殺し食べることへの責任と罪の意識があるとかでしょうか。

飯嶋:彼らは狩猟採集民たちと異なった次元で、生物を観念化しているんじゃないでしょうか。イメージの中で、この動物は賢い種だから、とか種の存続の危険があるので守るべき、とか。

木下:以前、飯嶋先生から伺った「心は悲しんでいるが、胃は喜んでいる」というセリフがとても印象深かったんですよ。

飯嶋:ああ、それはアフリカのヌアー族(※5)の話ですね。彼らは牧畜民です。成人になる頃に、自分だけの牛をもらい受けて、名前も自分と同じ名前にして、大事に育てていくんです。もう自分の分身ですよね。でもそんな分身も、牛の方が早く死ぬので、ある時には食べることになる。当時取材していた人類学者がそんな若者に、さっきまで自分の分身だった牛を食べるのはどんな気持ちがするのか尋ねてみたんです。そうしたらさっきの「心は悲しんでいるが、胃は喜んでいる」と返ってきた。でも少し、意地悪な質問ですよね(笑)。

異形なものとの共生

木下:先ほど、シンビオシスの話題で出たリン・マルグリスの研究の話をもう少し詳しくお聞かせください。

飯嶋:リン・マルグリスが報告している事例ですが、ある生物学者がシャーレの中で細胞を培養していたら、何かのはずみで蓋が開いていて、細胞がウイルスに感染してしまったんですね。で、ほとんどは死滅してしまったんだけど、一部の細胞はそのウイルスを取り込んで生き残っていた。次に、取り込まれたウイルスを人工的に取り除く処理をしたら、今度は細胞自体も死滅してしまった。それでこうした異形同士の共生がこれまでの生物進化の背景にあったのではないか、と考えられたわけです。(※6

木下:自分にとっての脅威が、自分にとって必要なものに変わっていくということですね。自分がその脅威との共生ありきの生命体に変わっていくという点が、非常に面白いですよね。

飯嶋:俯瞰的な視点でいうと、新型コロナウイルスと人類の関係にもいえることなのかもしれません。もちろん、多くの犠牲が出てしまうので誰からも歓迎される現象とはいえませんが。誰だってシャーレの中の「ほとんど」の方に入るのはいやでしょう?

木下:確かにそうですね。

飯嶋:異形同士の共生というテーマで語るとしたら、人類同士にも言えますね。これから人類が宇宙に出ていくと、宇宙環境に適応する子どもが生まれます。当然、地球上で生まれた子どもとは姿や形、体質、能力などに違いが出てくる。そういう異形の人類同士が同じ人類として認め合い、共に生きていく時代になっていくのでしょう。じゃあ、今、人類の間で壁になっている民族の違いとか、障がいの有無の違いとか、そういうところから認めあわなくてどうするんだ、と。サイボーグや機械との共生だって、我々人類はこれまでだって平気でやってきたのに、なぜ今頃ためらうのか、と。ですから、サイボーグや宇宙人類など、自分にとって異形の存在を受け入れるのも進化の一歩だと思います。

歴史や事象にみる、
異形なものとの共生

木下:生まれ育ちが異なる人同士、人類はどのように交流してきたのでしょう。

飯嶋:「沈黙交易」という言葉をご存知ですか。黙ったまま、言葉を介さない交易です。民族同士のテリトリーの流動的な境界に、ある時品物が置かれている。一方の民族が黙って置いたのですが、もう一方の民族は贈与品だとしてこれを受け取り、今度はお返しをする。世界各地にこの名残があるのではと、日本でも1980年代頃からよく言われるようになりました。日本で言えば、笠地蔵。お地蔵さんに笠をかける話には、民族同士が沈黙交易で贈与しあってた名残があるのでは、と。(※7

木下:映画などで「そこにブツを置け」と言う取引の場面と似ていますね(笑)。

飯嶋:それが複数相手になると、交易港ができるようになるんですね。ポートオブトレードといって、川の中州みたいにどちら側からも攻められない「安全地帯」のような場所が、沈黙交易には必要なんです。

木下:映画の「TENET」でもありましたよ。世俗の縁と切れた安全地帯、「フリーポート」と呼ばれる空間が。

飯嶋:そうそう。福岡の場合、その交易港が博多、特に中洲あたりだったんじゃないかと言われています。そこで奇妙なものが入り混じって、予想しないような面白いことが起きる。ただそうした交易港には、病気とか危険が入ってくる恐れもあるんですけどね。(※8

木下:今ならインターネットの世界がそういう場所になっているかもしれませんね。

飯嶋:そういう場所では、相手の存在を消すようなことはしてはいけないわけですよ。そうしないことで共在でき、相互に利益のある共生に至るかもしれない。

「みんなが知っている、見ている」
というメッセージ

飯嶋:紛争が起きた時、日本は裁判で双方の話を聞いて、量刑システムといって罰を決めますよね。人類学で研究されている、ハワイのホ・オポノポノという儀礼は、そうではありません。これは、共同体の中で問題が起きた時、問題を起こした当事者と、共同体の代表者全員が集まって、トーキングスティックというものを持ってる人しか話ししちゃいけないという特別な会を開くんですね。
そして、自分が今回起こったその問題についてどう思うか、1人ひとりが喋る。そうやってみんなのアイデアを全部集めて、でも結論は出さない。当事者には「みんながこう思ってるぞ」と思わせて、その後の生き方も当人に決めさせる。裁くんじゃなくて、「ここにいる全員がお前のことこう思ってるぞ」って知らせるだけで、その場の安全が保たれている。これはこれで知恵だなあと感心します。

木下:そういえば、天皇陛下の統治のことを「シラス」と表現します。征服して抑制するのではなくて、めいめいが何者で何をしているかを知っていますよ、と。人に知られる幸福感(有名になるとか)とか、偉い人に知られる喜びとか、そういう承認欲求みたいな人間の性質をホ・オポノポノは逆手にとっているのかもしれませんね。偉い人から「お前が何しているか知っているからな!」と言われることで、生き方を整えることができる。

飯嶋:恒常的な調停役が出てくるのは農耕牧畜社会以降に顕著ですからね。色んな議論があった時に誰かをどういう風にするのか、一堂に会して、決める。狩猟採集社会にも罪と罰はあるが、調停者はその時々にできる。戦の後に一気に戦利品が集まったので、その時そこにいた人たちでどうするか決める、中心的人物はいない。恒常的な中心ができるのは典型的には農耕社会。村長とか、裁判所とか。農耕者は何かあった時にその場から逃げられないので、みんなが一緒にいる中で意見を集約するためにどうするか、と。そこで調停者や裁判所の出番になるわけです。

基本、人類は互酬性。何かをやったら何かお返しをされる

木下:農耕社会になったら生活パターンはどう変わったのでしょうか。

飯嶋:もともと、狩猟採集漁労という人類の基礎段階には、互酬といって、何か獲得した人間は獲得できなかった人間に分けるという原則で生きてきた訳です。(※9
ところが農耕になると、一年ものの作物などを育てて富をストックできるようになり、一年間かけて作物を収穫した結果、社会の中心に収穫(の一部)を一回集めて、足りなかった人間に渡す。これは再分配と言いって、これが私たちの租税や福祉の原点です。
互酬は長いスパンでもある。例えば親子関係でもある。育った子が親に返す、というのも互酬関係です。より長期的なスパンだったものが、農耕社会になって一年間のスパンになったものが再配分で、さらにより短いスパンになったものが貨幣経済。交換という原則は一緒なんだけど、時間のスケールが違う訳ですね。

木下:なるほど。お願い事をする場合でも、こちらもお相手も「永続的に付き合っていく関係」と考えているか、どちらかは「その時だけの一過性の関係」と考えているかで対応は全く違いますからね。神社もそういうもので、ある方にとっては「永続的」なお付き合いだけれど、ある方にとっては「一過性」の関係に過ぎない。

飯嶋:ええ。互酬には貨幣経済に代表されるような否定的で短期的な互酬性と、狩猟採集民がやっていた肯定的で長期的な互酬性があって。どこで否定と肯定に分かれるか、その違いはタイムスパンにあります。だから、たとえば、神社にとってずっと地元に住んでいる人は長期互酬性の関係だから、「困ったときはお互い様」が通じる。でも最近この近隣に住みだした居住者の方とは短期互酬性の関係だから、「そんなこと突然言われても困ります」となるわけですね。

木下:トランスヒューマニズムや宇宙人類学、未来の人類、障害や老化も含めて、私は等価値と見ているのですが、ここがトラブルのタネになりがちです。そこで「共生進化論」の発想が助けになればいいと思うんですよね。

共生の原則2
共生には安全地帯が必要。

木下:自分とは違う誰かと「共生」したいと思っている人は多い。でも、一方では「共生」できっこないと決めてかかっている風潮もあります。その繰り返しから何とか抜け出せないかと考えていて。そのための1つの方法として、相反する意見を包摂するものとして神道を設定できればいいのですが、どう思われますか。

飯嶋:人類史を研究してきて思うのは、どの宗教であれ何も否定しないで全受容、ということはありえません。神道にも禁忌はあるでしょう。

木下:はい。神道の禁忌は、たとえば逆戻りはだめ。黄泉比良坂(※10)の神話にあるように、蘇らせちゃいけない。新鮮でないお供え、臭い・四つ足のお供えがだめなのは仏教の影響ですね。スサノヲの罪(農耕社会を破壊すること)もいけない、大祓詞の罪といって近親相姦などは、結局は社会そのものの動き、生のつながりを滞らせないということかもしれません。相手の存在を消すようなことはしても社会からの罰を受けます。あと、片方だけが殲滅されるような状況を作ってはいけない、とか。

飯嶋:片方だけが殲滅されるような状況を作らないのは、そうすれば殺しあわず、違う形で互いに生きていける別のパターンが生まれるからではないでしょうか。つまり、共生するためには、殺しあわない安全地帯を作らないとだめなんですね(※共生の原則)。「沈黙交易」の話題の中で話した、誰からも攻められない交易港みたいな場所が。そういう意味では、私は神社って現代の安全地帯なのかもしれないって思います。

※1 福井勝義(1943-2008)は認識人類学者。アフリカのボディ族の研究から、福井勝義1991『認識と文化』東京大学出版会で、牛の色彩や模様を通じて、共生と表現型の多様性の関係を指摘した。

※2 Donna Haraway(1944-)は『犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクス』(高橋さきの訳、青土社、2013年)で、「相互誘導」という発生生物学の概念を導入している。

※3 Jonathan Z. Smith 1982Imagining Religion: From Babylon to Jonestown. Chicago U.P.

※4 正式名称はシーシェパード環境保護団体。1977年設立。本部はアメリカ合衆国ワシントン州。クジラやイルカなどの海洋生物の保護を掲げる国際的非営利組織。

※5 エドワード・E.エヴァンズ=プリチャード1995『ヌアー族』向井元子訳 平凡社。ヌアー族は東アフリカのスーダン共和国を中心に遊牧する民族。

※6 リン・マルグリス&ドリオン・セーガン1989(1986)『ミクロコスモス-生命と進化』田宮信雄訳 東京科学同人、にはアメーバがウィルスに罹患するという管理の失敗から、DNA系統の全く異なるミトコンドリアが細胞に共生している共生進化の発想に至る経緯が描かれている。

※7 栗本慎一郎1979『経済人類学』東洋経済新報社や栗本慎一郎1981『法・社会・習俗-法社会学序説』同文館、小松和彦・栗本慎一郎1982『経済の誕生-富と異人のフォークロア』工作舎。また赤坂憲雄1985『異人論序説』砂子屋書房、参照。

※8 栗本慎一郎1983『都市は、発狂する』光文社。詳しく言うと、石堂川と比恵川の歴史的にねじれた関係がある。

※9 マーシャル・サーリンズ1984(1974)『石器時代の経済学』山内昶訳 法政大学出版会

※10 よもつひらさか。黄泉国(死の国)と現世の境目として『古事記』に記されている。伊邪那岐命が伊邪那美命を畏れて黄泉国から逃げ還る際、黄泉比良坂の坂本で三つの桃を投げて予母都志許売を退かせたという。

後編に続く ▶︎

飯嶋秀治さん

2005年九州大学大学院博士課程修了。人間環境学博士。専門分野は共生社会システム論。現在、九州大学人間環境学研究院 准教授として人間科学部門 人間共生システム専攻で共生社会学を担当。研究テーマはオーストラリア先住民(アランタ語系)、日本(北関東および九州の民族)、インドネシア(バリ島およびロンボク島)、世界社システム論、危機生存の技法、共生。主な研究論文は「オーストラリア先住民アボリジニの文化人類学」、「児童福祉施設における暴力とケア」、「水俣と民族史」など多岐に渡る。「大学的オーストラリアガイド こだわりの歩き方」(昭和堂/鎌田真弓編)をはじめ多数の書籍にも寄稿する。